本来は夏に帰国した時点で書くつもりだったのだけど、頭の中が全然まとまらないままに時が経ってしまい、最近は日本での生活もすっかり板についてきて、そろそろ働かなくてはと焦ったり、スペインの明るさがたまに恋しくなったりしているが、ついに年末ということもあり、15ヶ月にわたる海外生活の振り返りを含めて所感を書きたいと思う。
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やはり問題が全然起こらない
私が国外に出た目的の1つは「違う環境に身を置いてそれなりに苦労すること」だったのだけど、結局最後まで大した問題が起こらなかった。2つのピソと5つ以上のAirbnbを渡り歩いたのに特に揉めることもなく、スリや詐欺や明らかな人種差別に遭うこともなく、ホームシックになったり精神的に落ち込んだりすることもなく、至って呑気なまま帰国してしまった。あまりにもこの調子なので、自分は平和な星の下に生まれたのだろうと途中から開き直るようになった。非常にありがたい話だが、経験として良かったのかを考えると微妙なところである。
かなり気が済んだ
この1年あまりで行きたかった場所に行きまくり、かなり気が済んだので良かったと思っている。自分の望みを叶えたということでもあるし、世界中のものを見たところで別にどうってことないことが身に沁みて分かったということでもある。この世界のどこか、今とは違う場所に自分が見ておくべきものがあるのだというのだという考えは、長年の私の強迫観念でありモチベーションにもなっていた。だが、内向的な人間の宿命と言うべきか、どんなに素晴らしい景色や憧れの場所を見たところで、結局人生において一番満足し充実感を得られるのは、例えば1日望んだ通りに作業を進められたとか、作っていたものが完成したとか、新しく何かができるようになったとかいう自身の側にある出来事なのである。今回行くのを断念したイギリス、エジプト、ペルーなどにもそのうち行けたら良いなぁと思うが、もし行けずに終わったとしてもそのことを心から惜しむことはもうない。そういう心境になれたのは本当に良かった。
悲しきトレードオフ
後から思い返すと、私が理想としていた生活は2種類あり、1つは家で落ち着いて勉強や作業に集中する時間を多く持ち、整った生活リズムを確立して過ごすこと、もう1つはまだ行ったことのない国や街を多く訪れ刺激を受けながら過ごすことであった。結果的にかなり後者寄りの過ごし方をしたので、前者は必然的に犠牲となった。一応このブログを作ったり、細々とMixを作ったり(YouTube)、長編の本を読んだりはしたけれど、本当はもっとやりたいことがあったし、特に音楽・ソフトウェア関連でアウトプットを出せたら良かったと思っている。昔から自分に対して、1人で世界を回りながら仕事して生きていくようなイメージを持っており、今回の海外渡航はそれに近い状況を試すという意図もあったのだが、仕事に集中し時間をかけることと頻繁に移動することとの両立は私には無理だと知った。
疑似ナショナリズム
移動続きの生活の中で、異なる場所に行くほどに、その国らしさやその地ならではのものを尊ぶようになっていた。グローバリズムの恩恵を存分に受けながら均一化していく世界を嘆いていた。一時期はクラブミュージックですらどこ行っても同じようなことやっててつまんねーなという感じだった。現代ではそれこそがリアルな生活であるのだし、大して知らない国の「らしさ」なんて、一目で分かる安易な判断しかできない自覚はあるのだけど。
各地の独自性を重んじる考えが強くなったことは、私が海外生活から受けた影響の中で最大のものだと思う。以前は他国、特に日本に対する西洋のものを無意識にブランド化している部分があったことに気づかされた。日常生活においては、なるべくその地で普遍的に手に入るものを使いたいと思うようになった。日本にいるのにハムやチーズやLa Roche Poseyを日常的に買う必要はないし、逆にスペインにいるときに日本の食材や文房具なんかを探し回ることもしたくない。現地ではごく普通のものを遠くから見て特別視するよりは、今近くにあるものにも同等の価値があることに気づいていく方が良いと思う。それこそが豊かな生活と言えるのではないか。
知識人を目指して
各国の歴史や文化は膨大で、網羅するには全然足りないが、それでもいろんな場所に行ってみたことで多少の下地ができたと感じる。「海外」「欧米」「トライバル」「エスニック」みたいな表現が具体的に指すものについて気にかけるようになったし、文化の裏側にある政治システムや地理的条件なんかについても少しは理解するようになった。語学への欲も生まれた。帰国後の方がなぜか熱心にスペイン語を勉強している。外国人としてヨーロッパにいると3,4か国語できる人と出会うのはわりと普通なので、このくらいできなくてはと感じる基準が上がったのかもしれない。世界には多様な物事があり、まだまだ知らないことがあると思えることは、時に圧倒されもするが、視野狭窄になりがちな人生において今後大きな救いとなってくれると思う。
日本語とコミュニケーションについて
言語が分からないと少しのことにも負荷がかかり大変だが、雑音が多いストレスと比べるとどっちもどっちではないかと思うときがある。帰国時、経由地のバンクーバーで日系エアラインのアナウンスを聞いたときには思わずゾッとした。日本語のやたら敬語を使う感じ、声を作る感じ、事細かにルールを説明する感じ、を丁寧で素晴らしいサービスだと思う人もいるのかもしれないが私は苦手である。普通に喋ってほしい。もし私が外国からの旅行者だったとしたら、あの独特の抑揚に日本らしさを感じてワクワクするのかもしれないと想像した。同時に、多くの日本人が他人との会話を嫌って極力避ける原因はこれと地続きなのだと腑に落ちた。身近な人以外と関わるときに、普段とは違う繕った状態で応対することが標準的に求められるからである。一方的に強いられるという意味ではなく、そういう文化の中で互いに求め・求められている。
帰国してからすぐ、ある会社に電話で問い合わせをする機会があったのだが、相手が言うことに対して何度も質問を返していると、だんだん自分が面倒なクレーマー客みたいな気分になってきた。分からないことがあるから聞いているだけなのに、悪いことをしているみたいに自発的に思えてきて驚いた。言語とコミュニケーション様式が結びついている。会話のベースにちょっとした前提、こうあるべきだというような常識が強固に流れている。発言は潜在的に和を乱す行為であり、発言者はその価値を示すことが求められる。日本は生きづらいという人がいるのはそういうところが原因の1つではないかと思うし、私もあまり好きではないのだが、自分自身が存分にその文脈の中で育っていて十分には抜け出せないところがある。
この先は何処へ (Reprise)
帰国してから4ヶ月、そろそろ次の段階に進まなくてはと思い始めている。とりあえず職と家を得たい。生活の基盤を作りたいし、諸々の活動も再開したい。帰国時は移動生活に疲れ切っていて先のことを考える心境でもなかったのだけど、ようやく機が熟したというか現実に焦点が合ってきた感じがする。
意外なことに、これまでにないほど人生に前向きである。ものすごく自由を感じる。普通逆だよなと思うとちょっとウケる。今の状況がずっと続く前提で先のことを語っていいのだと感じる。自分が欲しいと思った物を何でも手に入れていいのだと感じる。どちらも幻想でしかないのだが(命も金も有限なので)、心境的にはかなり気楽である。今までに味わったことのない気分である。ある意味人生の目的の1つを果たしたのだと思うし、スペインが与えてくれた良い影響があるのかもしれないとも思う。今後もやれることをやっていこうという感じである。